努力の方向性
3月14日に俳優の渡瀬恒彦さんが亡くなられました。
自分は、渡瀬さんのファンというほどではありませんが、2時間ドラマだと『タクシードライバーの推理日誌』、それから、相方が櫻井淳子さん時代の『おみやさん』は結構好きでした。
遺作となった『そして誰もいなくなった』も観ました。
共演者の方々のコメント通り、まさに鬼気迫る演技で、ガンに侵されて余命いくばくもないといった設定でのセリフとか、その眼力とかすごいなと思いました。
その渡瀬さんですが、息子さんと娘さんがいらっしゃるようですが、お子さんたちの芸能界入りには反対だったそうです。
(お二人とも既に成人されていて、芸能界とは別のお仕事に就かれているようです。)
その理由が、「この(芸能界の)仕事は、努力の方向性がわからない」からだったそうです。
自分、この記事を読んだ時、衝撃を受けました。
これだけ成功している渡瀬さんから見ても、あの世界はそういう世界なのだなあと思ったからです。
実力があっても必ず売れるとは限らないし、売れているから素晴らしいのかというとそうとも限らないし、売れる努力と芸に対する努力は違う場合が多いだろうし、必ずしも磨き上げられた芸だけが評価の対象でもないし、売れたら力が得られるだろうけど、その力だって維持するための努力はまた違うものかもしれないし。
正直、よく分からないです。
ただ、やっぱり、研鑽を重ねた芸というのはジャンルを超えて素晴らしいと思います。
20代の頃、この人は頭が良いなあと、ほとほと感心しながら、鴻上尚史さんの本が好きでよく読んでいましたが、その中に、「観る・聴くなど受け取る側の魂を揺さぶるかどうかが、芸の一つの基準だ」、というようなことが書いてあって、それを読んだ時、自分の魂が揺さぶられました。
(今、手元に本がないので、正確な表記が分からなくて残念です。あの本、もう一回読みたいです。)
もちろん、人の魂は揺さぶろうとして揺さぶれるものではなく、そんなことを考えていたら、邪念が多すぎて、芸そのものが崩壊するでしょう。
たぶん、売れるということは、他人の評価で成り立つことだから、自分の努力とは無関係なんじゃないかなと思うのです。
だから、売れるということに執着するということは、常に他人の目を意識していなければいけないから、窮屈なんじゃないかなと思います。
相対評価に振り回されるより、自分の中にある絶対評価に挑む方が、努力の方向性としては健全だと思います。
ただ淡々と、やるべきことを丁寧に行い続ける。
そして、そうやって培ってきた想いや時間が芸に表れ、受け取る側に届いた時に、受け取る側の魂が揺さぶられるのではないかと。
いやいや、昨日のブログが結構重かったかなと思ったので、軽めの話題をと思ったのですが、これまた全然軽くない話になってしまいました。
(^^;
渡瀬恒彦さんのご冥福をお祈り申し上げます。合掌。